ゲーム開発会社(下請け)の様子と初仕事

今時のゲーム開発会社というと、メディアでのイメージはこぎれいなオフィスビルにパーティションで区切られたスペースを割り当てられ、マイペースで開発に没頭出来るすばらしい環境が想像されますが、20年近く前に自分が入社した会社は、小さいマンションに大きめな部屋を四つ借り、間仕切りをぶち抜いて、それぞれプログラマー、グラフィッカー、サウンド、その他事務が机を並べるという案配で、徹夜してももれなく元々のマンションの部屋に備え付けの風呂に入れるという、質素ですが居心地の良い場所でした。
社員もいい人が多く、初社会人として働く環境としては、恵まれていたと思います。

そんな中で最初に割り当てられた仕事は、確かアメリカで開発されたIBMPC用戦争シミュレーションゲームをPC98シリーズ用にコンバートするという、当時の上司曰く「簡単なお仕事」でした。
しかしながら自分にはかんたんか難しいかの判断もつかず、とりあえずソースコードを受け取り、最初の2週間はひたすらコードを印刷してファイリングするという作業を繰り返していました※1。

※1 当時の開発環境には「複数の画面」を開く機能はなく、ソースコードを俯瞰して解析したり、複数の関数を眺めながらコードを書きたかったりすると、印刷するしかなかったのです。

一通り印刷が終わって中身をのぞいてみると、事前に勉強していたアセンブラの文法とは異なるプログラム言語でのソースコードが全体の半分を占めています…あれ?コメント欄を見てみるとなんと「Turbo C」と書かれているではないですか!
入社研修で「C言語」をちらりと習いましたので、それが何であるか辛うじてわかりましたが、ちょこっと新人研修で学習しただけでいきなり実戦投入という、今考えるとかなりの無茶ぶり仕事でした。


そんな状態だったので、結果として当初の納期半年6人月予想の仕事だったとろこ、納期も工数も倍近くオーバーしてしまいましたが、不思議と受託元のディレクターや当時の上司には大して怒られず、今考えればその案件をOJTの一環で割り当ててくれたのか、と前向きに受け止めています。呆れてものも言えなかった可能性も大ですが。

そんなこんなで初仕事は1年弱かかってようやく完成したのですが、当時のPCゲーム雑誌のゲーム売上ランキングで最高15位を記録し、1から自分で開発した訳でもないのに、根拠の無い自信が更に増幅する事となりました。
更に1年後にやってくる、一発目の不幸も知らずに...

と、この記事を書きながら当時苦労したポイントを思い出しました。せっかくなので書き留めておきます。


  • 開発環境の製品が移植元と先で違っていた(移植元はTurbo C/ASM、自分とこのはMS-C/ASM
  • 画面の解像度が全然違ってた(IBMPCは、EGA(320*200)、PC98系は640*400で、等倍ではない為、単純な拡大処理では画面に収まらない!)
  • グラフィックチップが全然違っていて、かつそれをラップするライブラリなんて上等なものは当時存在しないので、描画系の処理は全部作り直し
  • 日本語表示処理なんてものは当然移植元のソースに入っておらず、文字列操作〜画面出力も全部作り直し
  • ゲームそのものがリアルタイムシミュレーションで、プログラムもそれにあわせて一本道ではなく、イベント発生を見張るメインプログラムがイベントメッセージの授受の為に再帰処理で書かれており、解析の過程でその意味を理解するまでかなりの日数を要した。